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カーライル・ハウス ー 2

Category : いにしえのバージニアン達

ワシントンに日本から来られた方にはお馴染みのダラス空港は バージニア州の
フェアファックス郡境にあるが その郡の名はその昔 アメリカが独立する以前
この辺り一帯を所有していた英国人 フェアファックス卿に因んでいます

フェアファックス家の令嬢のひとりは やがてアレクサンダー市 (バージニア州) の
創始者のひとりであるジョン・カーライルに
嫁ぐことになるのですが そのふたりが住んだ家が これ ↓

現在は同市の観光スポットになっています


caaralylehouse7558.jpg



caralylehouse7554.jpg



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テーマ : アメリカ合衆国
ジャンル : 海外情報

カーライル・ハウス

Category : いにしえのバージニア
carlyle7556.jpg



テーマ : アメリカ
ジャンル : 旅行

アテナイオン

Category : 史跡

athenaeum7685.jpg


ギリシャ風のこの建物は 元々1850年代に建てられた銀行だったそうです


オールド・アレクサンドリアの一角にありますが
現在は同市の美術館の一部になっていて
写真や絵画の展示がなされている、 と聞きました


ADDRESS: 201 Prince Street, Alexandria, Virginia 22314





テーマ : アメリカ
ジャンル : 旅行

リー・フェンドル・ハウス

Category : いにしえのバージニアン達
Lee-Fendall House


Lee-Fendall House



ロバート・E・リーが育った家のほぼ真向かいにあるこの家は もともと
彼の父で独立戦争のヒーローとうたわれる 
ヘンリー・”ライト・ホース・ハリー”・リーの地所を そのいとこ、
フィリップ・フェンドールが購入、 建てたものでした

1785年建設、 といいますから リー兄弟 (兄は前回述べた、
黒船指揮官のひとり) はこの家の周りで遊んでいたことも考えられますね



Lee-Fendall House



南北戦争中、 特に1863~1865年の間は北軍が占拠、
軍病院として利用されていたそうです



Lee-Fendall House




米国労働組合の指導者として歴史に名を残したジョン・L・ルイスも
1937~1969年の間 この家に住んでいました

1880年生まれですから 57歳から住み始めたことになりますね

炭鉱夫たちを率いて賃上げストライキを行ったり
リーダーとして大活躍をしていた時期に過した家、 とも言えそうです



同氏に関この方のサイトに詳しく記されてます



Lee-Fendall House



ADDRESS: 614 Oronoco Street, Alexandria, Virginia 22314






テーマ : アメリカ
ジャンル : 旅行

クライスト教会

Category : いにしえのバージニア
Christ Church




1773年にジョン・カーライルによって建立されたこの教会はアレクサンドリアにある
最古の教会であり、 古くはジョージ・ワシントン、 そしてロバート・E・リーも
頻繁に礼拝に訪れたとされています



Christ Church



南北戦争時代に捕らえられこのアレクサンドリア市内にある牢でそのまま
死亡した南軍兵士32名の他、 ロバート・E・リーの兄で黒船で日本を1853年に
訪れたシドニー・スミスのお墓もこの教会内にあるそうです


フランクリン・ルーズベルト大統領とウィンストン・チャーチル
両氏が1942年1月1日、 世界平和祈願の日 
World Day of Prayer for Peace に
祈りを捧げた教会としても知られているということです

次回 チャンスがまたあったら 教会内外をもっと注意を払って見学してみたいものです



Christ Church




ナショナル・ヒストリック・ランドマークに登録されているこの教会の住所は以下の通り:

118 North Washington Street, Alexandria, Virginia






テーマ : アメリカ
ジャンル : 旅行

ロバート・E・リーに縁とゆかりのある家々

Category : いにしえのバージニアン達
リーの育った家


アレクサンドリア市 (607 Oronoco Street) にある ↑ の建物は
ロバート・E・リーが幼少時代を過した家だ、 と前回ご紹介しましたが、 もうひとり
日本に縁のある人物、 次兄、 シドニー・スミス・リーの育った家でもありました

シドニー・スミス・リーが何者か、 については以前も述べたことがありますが
米墨戦争の際の活躍ぶりを戦場で間近に見ていたマシュー・ペリーから 1853年の
黒船艦隊の旗艦、 ミシシッピ号の指揮を任せられた海軍中佐 (後 大佐=キャプテン) でした


  
ネットから拝借しました
(写真は こちら のウエブサイトから拝借しました)



右端の人の方がロバート・リーに似てる様に見えるのですが シドニー・スミスは左端、
1855年撮影といいますから 黒船で日本から帰還して間もなくの頃の撮影だと思われます


stratford34.jpg



そのリー兄弟の生家、  ↑ ストラットフォード・ホールです

ストラットフォード・ホール・プランテーションを訪れた時のレポ (こちら) には
ロバート・E・リーが四歳まで過ごした、 とだけで引越しの背景は詳しく述べませんでしたが
母、 アン・カーターの実家、 シャーリー・プランテーションを見学した時のレポ
には長たらしく書きましたのでご記憶の方もおられるとは思います



azusa4193.jpg




その前にロバート・エドワード・リーを出した リー家の家系を再述しておきます

リー一族は独立宣言署名者をふたりも排出しているバージニアではエリート一家、
由緒ある家柄で リー兄弟の父親、  ライトホース・ハリー・リーもワシントン大統領葬儀では
代表で弔文を読んだり、 そして バージニア州知事を務めるほどの Who's Who 的存在でした





(リッチモンド市にある バージニア州知事公邸


先妻に先立たれ州知事として公邸に一人住まいをしていたライトホース・ハリーは
宴で知り合った これもバージニアでは大富豪として知られているカーター家の娘、 美貌の
アン・ヒル・カーターを見初め結婚を迫りました    ところが家柄こそ釣り合うものの
この時までに手当たり次第に借金を重ね続け信用を落とし切っていたリーは猛反対に合ってます

アン・ヒル・カーターが両親の言うなりになって ライトホース・ハリーの求婚を拒否していたら
南軍の名将軍、 ロバート・E・リーは 誕生しなかったことになるわけですが
なんとか無事結婚に辿り着いたライトホース・ハリー、 新妻、 アンを連れて前妻と
過ごした家ストラットフォード・ホール (前妻が亡父から相続) に戻って来ます

が間もなく背負った借金の返済が出来ず刑に服する事になりました

そこへ父親不在を知った前妻の長男が舞い戻って来た為  それまで三児の母となっていた
アン・カーター・リーですが 居辛くなったのか親類筋にあたるウィリアム・フィッツヒュー
(当人は接待の煩わしさを逃れ三軒目の別宅に居を構えてました - 詳細は
チャタム・マナー見学時のレポをどうぞ) にアレクサンドリアの
家を提供され子供達を連れて移って行きました

ロバート・E・リー兄弟を伴って母親 アンが前記の屋敷へ引っ越した理由です

(因みにフィッツヒューの本邸は ↓ チャタム・マナー
azusachatham007.jpg
チャタム・マナーに関しては拙ホームページにはさらに詳しく書いております



releehouse3766b.jpg
リー将軍の借家 ↑ についてのレポは こちら です



時代が移り・・・南北戦争勃発後、 北軍の接近により アーリントン・ハウス に未練を残しながら 
追われる様にして ロバート・E・リーの妻とその家族は 南部連盟国の首府であったリッチモンド、 
ダウンタウンにあるこの借家に避難して来ました   そして南部が敗れた数日後に妻子の元へ
帰還した時のリー将軍の仮住まいの建物の写真を ↑ もう一度 載せて締めくくります



 こちら サイトから写真は拝借しました
ウエブサイトから拝借しました





テーマ : 史跡
ジャンル : 学問・文化・芸術

リーの育った家

Category : いにしえのバージニアン達
バージニア州 アレクサンドリアにあるリー将軍の育った家


「ウエストポイント入学の時が来てロバート・E・リーは彼が
こよなく愛したこの家を去った。

アポマットックスの戦いの後 帰宅した彼は 
「スノーボールが咲いているか」 見たくて塀をよじ登った。




リーの育った家


(覗いてみましたが スノーボールは見えず 代わりに百日紅が咲いてました)



リーの育った家



この家にはウィリアム・フィッツヒュー邸だった頃
ジョージ・ワシントンも食事に招かれている。

フィッツヒュー氏はリーの親類でしかもリー夫人には祖父にあたる人である。 
 
1924年にはラファイエットもこの家を訪れている。」

(下手な訳ですが。。。)




View Larger Map



続きます

テーマ : 史跡
ジャンル : 学問・文化・芸術

メドーファームの奴隷

Category : バージニアの黒人達の場合
0985.jpg


奴隷の反乱で後世に名を残したものは 
ナット・ターナー事件ですが
それより30年ほど前の1800年には リッチモンドでも 
ガブリエルという名のレンガ職工が 過酷な労働、重圧に耐えかね
 仲間の奴隷たちと農場主への反抗を企て 未遂に終わった一件がありました


0990.jpg




成功していれば 後年大統領となる当時のバージニア州知事
ジェイムス・モンローは人質として捕らえられ リッチモンド市は焼き落とされ
暴動は南部全体に拡大されていたかも。。。


ガブリエルによる一揆はそれに加わる筈だったファラオ
という奴隷が怖気づいて主人に届け出た事で発覚


首謀者30人以上が絞首刑となりました


そのファラオが働かされていたのが このメドーファームでした





テーマ : アメリカ旅行
ジャンル : 旅行

メモリアルデー

Category : ワシントンDC
アメリカは5月31日はメモリアル・デー (祝日)



朝鮮戦争戦没者慰霊碑



首府 ワシントン DC には 戦没者の慰霊碑が多く見られますが
朝鮮戦争戦没者慰霊碑 もそのひとつです




テーマ : アメリカ
ジャンル : 旅行

茶会運動というより茶党派運動?

Category : いにしえのバージニア

セイント・ジョン・チャーチ



最近 『Tea Party』 運動が盛んになってるアメリカですが  これを
茶会、 と訳すのはどんなものか、 と些細な事とは知りながら 
すっきりしない気持ちでいる私です。

そもそも Tea Party とは 米大統領の経済政策などに対して
抗議し出した共和党支持者達の集団が 「Taxed Enough Already」 
(既に課税されてるだけで十分だ) と頭文字 『TEA』 を取り、 
1773年12月16日にボストンで起きたボストン茶会事件、 
Boston Tea Party に かけて? もじって命名されたようです。 

西洋史で習いましたよね、 英国が植民地に課した茶税に反発、 『自由の息子達』
(Sons of Liberty) と名乗る愛国急進派の一団がボストン港に停泊中の
英国船に乗り込んで積んであった茶箱を全て投げ捨ててしまった事件。

あれも確か 『茶会』 事件として教わったような・・・。 でも茶会、 だと いかにも
バースデー・パーティーとかカクテルパーティー、アフタヌーン・ティー・パーティー
みたいじゃありませんか。 事件の内容とどんな関連があるんでしょうね。

アメリカでは民主党は Democratic Party、 そして共和党は・・・
Republican Party、 です。  ですから矢張り Tea Party はお茶会、
じゃなくって 党派として訳した方が当たってるんじゃないかな、 と思う次第です。



Patrick Henry



ところで、 ボストンでの事件があった翌々年の3月23日、  当地バージニア、
リッチモンドにある教会 St. John's Church にて若きパトリック・ヘンリーが
"Give me Liberty, or give me Death!"
{自由を、 然らずんば死を!) という歴史に残る演説をぶちました。



St. John's Church



↑ 写真は こちらのサイトより拝借


今日の写真は 今も当時のまま残る セイント・ジョン 教会です。



セイント・ジョン・チャーチ



セイント・ジョン・チャーチ



余談ですが・・・
パトリック・ヘンリーの住んでいた家を見学したことがあります。  
その時の記事はこちらです。 (写真は全て外してしまってますが・・・)





テーマ : オバマ大統領・政権
ジャンル : 政治・経済

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梓の小鳥

Author:梓の小鳥
別名: Azky

バージニアとその先住民やいにしえの人々の事を綴ってます。


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